踊らない権利
私はこどもの頃(今も)、
いわゆる「自己中心的で協調性のない子」とされてきたのですが、
あとから振り返ると色々と言いたいことがあります。
例えば、「なぜみんな一斉に歌ったり、ダンスをしないといけないのか?」笑
踊らない権利
先日HILLOCKでダンスをしました。
生徒は今13人なのですが、そのうち5人が踊らないで様子を見ているのです。
8人がノリノリで「One more time!」とアンコールの一方で、様子見軍団は二曲目も見てる。
HILLOCKは(安全面で問題がない限り)「促すけど、強制はしない」スクールです。
シェルパ(担任)は「面白いよ、踊ろうよ」とか促しているけど、ウンともスンとも動かない。でも、じゃまをするわけでもない。
こっちも誘導したり、強要したりしない。ゆるーい感じ。笑
これをどう見るかは人それぞれだと思うのですが、普通に考えたら「みんなやってるんだから、踊ってよね」となるのかなと思います。
でも考えようによっては、「踊らない権利」もあるんじゃないかという考え方もあると思うのです。
私自身、5才以降はほとんど歌いませんでした。
だって、特に発表会とかの「子どもが歌うのを大人がニヤニヤ見る」構図って気味悪いんだもん。。
まあ歌わなかったり踊らなかったりすると、たいていは怒られるし、嫌われますね。笑
でも、考えれば考えるほど今でも思うのですが、なんで大人はやる権利・やらない自由があるのに、子どもは一律に押しつけられるのでしょうか?
子どもだから?
みんなやってるから?
それって理由になるのでしょうか?
子どもにだって気分もあるし、好き嫌いも、言い分もあるんですよ。
何より素直に聞いている子を「うん、うん」とみる大人のまなざしがいや。見世物じゃないんだ、こっちは。
「やらないとずるーい」とか「みんなやっているのに」とか言われるけど、理屈を立てて言い返せない、言い返しても言いくるめられる弱者に一律に押し付けるのはもっと「ずるい」と私は思うのです。
この手の押え込み、大人が大人に職場でやったら、まあ普通にパワハラですね。
かといって、時に収拾がつかなくなる時もあったり、全員がやらなかったらどうなんだ、などの話もあります。
それでも、気乗りしない子にスペース(時間とか空間)を渡すことはとても大切だと考えています。
ちゃんとあなたの権利をリスペクトしてます、と伝えることは大切です。
権利を主張する練習
アメリカのCreative Curriculum(少し前の版)の発達段階「4~6才/社会・感情面」のところに、「仲間と協力して遊ぶ」「共有を学ぶ」「順番を守る」などと並んで次のような文章があります。
Protects self and stands up for rights. 「自分を守り、権利を主張する」
私は共感します。
日本の教育で、幼稚園でも小学校でもどこでも「あなたは権利を主張していいんだよ」ってきっちりと伝えているところありますか?
私は思うのです。自分の権利を守ってもらえて、やっと人の権利を尊重することができるだろうと。
人は「自分が取り扱われたように、相手を取り扱うもの」なんじゃないかなぁと。
いじめられても『いじめられる方のあなたも悪いのよ』とか言われて、どうして人を思いやる気になるでしょう。
そんなことをしたら「わがままになる」「収集がつかない」「なめられる」とかいう教育者もいるでしょう。
なら聞きます「わがままの何が悪い?」
あなたはわがままゼロの人間なの? そしたら「あなた、すぐ死んじゃうよ」と。笑
マザーテレサだって、自分が生きる最低限のごはんは食べている。
ましてや、相手は未熟です。
大人ならおおらかに子どものわがまま受け止めるという発想はあっていいと思います。
わがままを受け止めてもらって、人のわがままを受け止められる
わがままがあるから、こだわりとか目標に向かう力も出てくる。
内側からあふれてくるそんな”情念”のようなものだと思います、その子(人)のリアルな情念。
人はみなわがままなもの、だけど、そのわがままを何に生かすのか、のかが大切。
自分のためだけだとつまんないし、みんなのためにも使おうよ、それが多分いいと思うよ。
こんな流れが、将来のやりがいとか公共性につながるのではないでしょうか?
規制したり我慢しあうのも大切かもしれないけど、わがままを受け入れあうのも大切だと思います。
いずれも状況に応じて自分で判断していくこと。
先日こんなことがあったそうです。
HILLOCKでは毎日隣接している公園でアウトドア活動をしているのですが、その帰り道、ある女の子が「あの花をとりたい」とちょっと遠くを指さしました。
みんな自分もやりたいこともあったけど切り上げて帰っている最中です。ランチ前でおなかもすいているし…
で「どう?」ってみんなに聞くと「オッケー」。
そして、取りに行ったりします。その間、みんな文句言わずに待っている。
むしろ、その子のうれしそうな顔を見て、なんか満足そう。子どもって器が広いんです。
そのうち「あっちにもあるよ」とか言い出して。
いやいや、それだと、いつまでたっても帰れない。笑
自分のわがままを受け止めてもらって、人のわがままを受け入れられるようになる。
これが、多様性を大切にしよう!の第一歩になる。
みんなが少しずつ我慢させられていると、一人だけ許されるから「ずるーい」発言が出てくるのだと思います。
自由、権利、思いやり、義務、全てつながっています。
自由や権利はないけど、義務だけ守れ、我慢しろ、なんてありえません。
そんなこと言われたら、大人だったらキレますよね。
逆に、自由であるには何が必要?なんでもありじゃないよね、とか言って、話し合ったりして学んでいくものでないでしょうか。
「収拾がつかない」をどうするか?
とは言え、一人ひとりに対して”わがまま”を受け入れていたら「収拾がつかない」状態になったりするでしょう。
そこであえて「収拾が教育の目的か?」などと屁理屈をこねてみたりする。笑
どこかで線を引くことはもちろんありますが、ただ収拾の帳尻をはじめから子どもに持っていくのを当然と考えるのか、大人ができる限り工夫するかは大きな分かれ目ですよ。
どうしてももっていかざるを得ない場合は、それに「自覚的であるべき」だと思います。
子どもに持っていくのが当然というスタンスは本当によくないと思います。
最初のダンスの話に戻りますと、見物チーム5名のうちの3名はダンスに参加。でも、2人はやっぱりそのまま。
残った2人はなんとも言えない顔をしている。
こういう時、子どもって本当に色々と感じたり、本気で何かを考えたりしているのだろうなと思います。
それを見ている私は「なに考えてるんやろ」「ええぞぉ、がんばれー」とニヤニヤしてしまいます。
当時の歌わない自分の仲間ができた。笑
皆さんは「踊らない権利」についてどう考えますか?お聞かせください。
喜びの舞:ちなみに私は今は踊っています。笑
少しでも参考になればハッピーです!
<堺谷武志の略歴>
大阪出身、京都大学工学部、南カリフォルニア大学MBA、三菱UFJ銀行(海外駐在やアジア戦略担当)を経て独立。2006年インターナショナルな環境で人と自然にふれあうプリスクール「キッズアイランド」設立。保育士。一女の父。東洋拳法二段、京都伝説のアマバン「コンプレックス」のボーカル。週末登山家(最近へたれ気味)。
2019年教育起業家とともにNPO法人ソダチバ・プロジェクトを設立し、代表理事に就任。幼稚園でもインターでもない第三の選択肢「HILLOCK Kinder School」を設立。2022年4月「ヒロック・オルタナティブ小学校」を設立します!
(プロフィール詳細はこちら)(ヒロックの想いはこちら)
著者・堺谷武志が運営するプリスクールは「キッズアイランド」はこちら
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